








**「帰りたい場所」**
彼は振り返らなかった
誰の顔も、笑い声も、遠い国の匂いさえも
すべてが 薄れていく酸素のなかで
ただ 雲と雪の境界を、登っていた
目指す場所は あんなにも青かった
けれど帰り道に光はなかった
沈みかけた太陽が
彼の背中に問いかけていた:「まだ登るのか」
──ここじゃない、きっと彼が帰りたかったのは
春の匂いのする小さな部屋
約束も夢も 遠くに置いてきたけど
彼の瞳はまだ あの空の先を見てた
雪が叫びを飲み込んだ
「もう帰ろうよ」と誰かが風に乗せた
彼は笑っていた でもそれは誰にも見せない顔
──怖さを隠すための仮面
ふいに立ち止まり 空を仰いだ
その目に 星のような希望が まだ残っていた
帰るために 登ると決めたのに
彼の足元には 道がなかった
踏み出すたびに 雪が過去を覆っていく
──ここじゃない、きっと彼が求めていたのは
ただの「頂上」なんかじゃない
誰かが待ってる、名を呼ぶ声がある
そのぬくもりの場所に 戻りたかっただけ
誰もが信じてた 彼なら戻ってくると
だが山は何も語らず ただ 沈黙の白を降らせた
そのとき 彼は最後の一歩を刻んでいた──
──ここじゃない、きっと彼が還りたかったのは
夕陽が差し込む窓のある あの部屋
手ぶらでいい、傷だらけでいい
「ただいま」って 言えればよかったんだ
雪はすべてを覆い、
でも、彼の軌跡だけは 確かにそこに残っていた
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